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BookReview 〜「Justice(Michael J. Sandel)」〜 Part2「最大幸福原理〜功利主義〜」

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今回のテーマは「最大多数の最大幸福」の言葉で有名な功利主義です。哲学者ベンサムから始まり、その後ジョン・スチュアート・ミルによって引き継がれた功利主義について、その考え方とミルが直面した自己矛盾について見ていきます。

功利主義 〜道徳に科学を〜 

ミニョネット号の話

まずは、下の事例について見てみましょう

1884年7月5日、イギリスからオーストラリアに向けて航行していたイギリス船のヨットミニョネット号 (Mignonette) は、喜望峰から1600マイル(約1800キロメートル)離れた公海上で難破した。船長、船員2人、給仕の少年の合計4人の乗組員は救命艇で脱出に成功したが、艇内にはカブの缶詰2個以外食料や水が搭載されておらず、雨水を採取したり漂流5日目に捕まえたウミガメなどで食い繋いだりするが、漂流18日目には完全に底をついた。19日目、船長は、くじ引きで仲間のためにその身を捧げるものを決めようとしたが、船員の1人が反対した為中止された。しかし20日目、船員の中で家族もなく年少者であった給仕のリチャード・パーカー(17歳)が渇きのあまり海水を飲んで虚脱状態に陥った。船長は彼を殺害、血で渇きを癒し、死体を残った3人の食料にしたのである。』[引用 :https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%83%A7%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6] 

功利主義の出発点ベンサム

 ベンサム功利主義は極めてシンプルです。自然権を「大言壮語のたわごと」と蹴散らし、道徳の思考の原理を幸福、すなわち苦痛に対する快楽の割合を最大化することだと言っています。ベンサムの言う「効用」という言葉は快楽や幸福を生む全てのもの、苦痛や苦難を防ぐ全てのものを表します。功利主義は行為を道徳的に判断する際に、その行為から生じる帰結(結果)を考慮に入れる帰結主義の一つと言えるでしょう。

「効用の最大化」という観点からミニョネット号事件を見てみましょう。功利主義者たちにとっては船長の判断は正しいと結論づけるでしょう。4人の乗組員が死ぬよりも、虚脱状態で身寄りもいない給仕の人肉を食べて家族がいる残りの三人が救われた方が「効用が最大化する」というのです。

浮かび上がる二つの疑問

しかし上の事例について、二つの疑問が浮かび上がります。

①効用をどのように計算しているのか

雑用係を殺すことで得られる利益は全体として本当にそのコストを上回るでしょうか?つまり、救われる命の数と家族の幸福を考慮したとしても、こうした殺人を許容することで殺人に対する規範が緩む、正規の裁判を経ないリンチを許容する傾向が強まる、あるいは船長が雑用係を雇いにくくなる、といったデメリットが考えられるということです。「給仕を殺すこと=効用の最大化」と本当に言えるのでしょうか?

また、そもそもどのようにメリット・デメリット、言い換えれば「効用」を定量的に計算し合算するのでしょうか。

②人の命はコスト・利益の計算を超越したものではないのか

仮にあらゆることを考慮に入れた結果、利益がコストを上回るとしましょう。たとえそうであるとしても、無抵抗の雑用係を殺して食べることはコスト・利益の計算を超越した倫理的理由から正しくないのではないか。そのような疑問は拭いきれません。

 

以上から、功利主義に対する二つの反論が導かれます.

功利主義への反論

反論1. 価値の共通通貨などないのでは?

功利主義は道徳に科学を提供すると主張します。その土台となるのは幸福を計測し、合計し、計算することです。ここでフォードのとある事例を見てみましょう。

1970年代、フォードの「ピント」はアメリカで最も売れているコンパクトカーの一つでした。しかし、そのガソリンタンクは追突された場合に爆発しやすかったのです。この欠陥による火災事故で500人以上が命を失い多くの人々が火傷をおったと言います。しかし、のちにフォード経営陣がこのガソリンタンクの危険性に気づいていたことが明らかになります。フォード経営陣は費用便益分析を行い、一台当たり11ドルのコストをかけてガソリンタンクの安全性を高める部品をつけてもその便益は費用に見合わないと結論づけたのです。彼らは安全性を高めたガソリンタンクによって得られる便益を計算するに当たってタンクを改良しなければ180人が死亡し、180人が火傷を負うものと見積もっていました。そして、失われる命と生じる火傷をそれぞれ金額に換算したのです。命=20万ドル、火傷は6万7千ドル。さらにこの金額に焼失するピントの数と価格を加え、安全性を改善する総便益は4950万ドルとはじき出した。一方、1250万台のピントに一台当たり11ドルの部品をつければ、1億3750万ドルのコストがかかる。したがって、フォードはガソリンタンクを改良する費用は、車両の安全性を向上させる便益に見合わないと結論づけたのです。

ここで命が20万ドルと見積もられたことに対してどのように思われるでしょうか。 安すぎる?では、50万ドル?100万ドル?1億ドルでも少ない?

次の事例はどうでしょう。

古代ローマではコロセウムでキリスト教をライオンに投げ与え、庶民の娯楽としていました。ライオンに八裂きにされ苦しみを味わうキリスト教徒とそれを見て楽しむローマ市民という構図ですが、これについてもやはり哲学的問いが浮かび上がります。それはライオンに襲われるキリスト教徒の権利を踏みにじっているのでは?ということではありません。ここで問われるのは「趣味の悪さ」です。もしこの娯楽によって得られるローマ市民の快楽の総和と同じ量の快楽が得られる娯楽、例えば音楽とサーカスなどがあった場合、それらは本当に同等のものでしょうか。つまり、キリスト教徒をライオンに襲わせることは崇高な娯楽ではなく、俗悪な娯楽に迎合しているということです。

 

1つめのフォードの事例では命に値段をつけることはできない、すなわち万物をお金という価値尺度では測れないのでないかという反論が起きます。

2つ目の事例では快楽を大きさ×持続時間だけで測れないのではないか、すなわち快楽にも道徳的に「良い」ものと「悪い」ものが存在するのではないかという反論が起きるのです。

どちらも効用の「評価方法」への反論です。

反論2. 個人の権利

例えば、テロ容疑者(まだ容疑者の段階)の拷問は正当化されるでしょうか。

かつてのアメリカ元副大統領リチャード・チェイニーはかつてアルカイダのテロ容疑者に対して厳しい尋問法を用いればさらなるテロ攻撃を防げると主張しました。これは功利主義の立場に立っているのは自明でしょう。拷問で苦痛を受け、幸福と効用が著しく低下するのはテロリストですが、爆弾が爆発すれば何千もの命が失われます。功利主義者たちは一人の人間に苦痛を与えても、それによって大勢の人々の死や苦しみを防げるなら道徳的に正当化されると主張するでしょう。

しかし、次の場合はどうでしょう。テロ容疑者の口を割らせる方法がその男の(父親の非道な活動を何も知らない)幼い娘を拷問することだとしましょう。これでもなお、拷問は正当化されるのでしょうか。

この例は功利主義に対して基本的人権に訴える反論になっているのです。

ジョン・シュチュアート・ミル 〜陥った自己矛盾〜

ここまでベンサム功利主義への二つの反論を見ました。

一つは、ベンサムの最大幸福原理は人間の尊厳と個人の権利を十分に尊重していないと言うもの。

もう一つは道徳的に重要な全てのことを快楽と苦痛という単一の尺度に還元するのは誤りだというもの。

 こうした反論にベンサムの友人かつ信奉者であったジェームズ・ミルの息子ジョン・シュチュアート・ミルは功利主義をより人間的で、打算的でない学説に鋳直すことで答えようとしました。

次はそのジョン・シュチュアート・ミルの主張を見ていきましょう。

自由擁護論

まず功利主義が個人の権利をないがしろにしているという反論について見てみましょう。ミルは著書『自由論』の中で人は他人に危害を及ばさない限り自由で、人から価値観を押し付けられるべきではないと主張します。と聞くと、功利主義とは別により頑丈な道徳的基盤が必要となるのではないかと疑問が湧きます。つまり、効用以前に個人の権利はデフォルトで万人に与えられた不可侵の権利である、ということです。

しかし、ミルの主張は違います。あくまでも評価基準は「効用」です。ミルは、マイノリティーの存在や意見を尊重することは長期的な視点で見た時、人間の幸福を最大化すると言うのです。少数派の主張が結局真実であることが分かり主流派の意見を修正することに繋がったり、世の中全体の無意味な画一性を予防したりできるとミルは主張するのです。

しかし、これはいまいち説得力に欠けます。

まず社会の進歩のための個人の権利が重要であるなら、個人の権利は偶然の産物ということになります。専制的手段で長期的な幸福を達成することを目標とする社会では個人の権利は生まれません。

第二に功利主義的な考えを権利の基礎に置くと、個人の権利の侵害がたとえ社会全体の幸福を増大させても個人に不正を働いてるという感覚を捉え損ねているのです。 

 これらにミルは一つの答えを用意しました。

 ミルは人生の究極目的を人間としての能力を完全かつ自由に発展させることと定義して、慣行、因習、有力な意見に従って暮らすように人に強制することは誤りだと主張しました。しきたりに従えば、満足な人生を歩め、危険から身を遠ざけることができることをミルは認めていますが、「その人の人間としての価値はどうなるだろうか」とミルは問います。「本当に重要なのは人が何をするかだけではない。それをする人がどんな人間であるかも重要なのだ。」と。

したがって、行動と結果だけが問題ではない、「人格(個性)」も無視できないと言うのです。効用を超えた道徳的理想=「人格や人類の繁栄という理想」に訴えている以上、帰結主義である功利主義から逸脱してしまっているのです。

快楽の「質」

 ベンサムの言葉に「快楽の量が同じなら、プッシュピンも詩も同じように良いものである」(プッシュピンは子供の遊び)というものがあります。人々の好みについてその道徳的価値を考慮せず、快楽の強さと持続時間を唯一の評価尺度にして平等に評価していくのでした。しかし、上でも出てきたようにコロセウムでキリスト教徒をライオンの前に放り出す事例にあったように「趣味が悪い」快楽なども世の中には存在するような気もします。ベンサムならば「趣味の悪さ」など気にも止めないでしょうが、ミルは「ある種の快楽は他の快楽よりも望ましく、価値が高い」と快楽の「質」を認めます。

しかし、快楽に質を考えてしまうと功利主義の原理から逸脱してしまうことが分かります。以下の質問に答えてみましょう。

「今あなたはテレビの前に座っています。見られるチャンネルは2つ。一つは旬の芸能人がたくさん出ていて手の混んだドッキリ番組。もう一つはシェークスピア俳優が演じる「ハムレット」の独白。仕事から帰ってきて疲れたあなたならどっちを見ますか?」

どうでしょうか。サンデル先生が似たような質問を学生にすると、大体の学生は楽しめるのは前者で質が高いのは後者と答えるのだそうです。

後者の方が質が高いと人々が思うのは、端的に言えばそれが高貴だからです。それが個人として上位の存在になる可能性を秘め、高い能力の取得につながり、より豊かな人間にしてくれるからです。

しかし、こう考えると快楽の質の高い低いは人々の現実の欲求が基準ではなくなってしまっています。質の高い低いはもはや効用そのものとは無関係な人間の尊厳や人格という道徳的理念に訴えていることになり、行動と結果のみによって物事を評価する功利主義から逸脱してしまっているのです。

 

 

 

 

いかがでしたでしょうか。ベンサムから始まりミルによって引き継がれた功利主義を見てきました。どんな組織にも存在する「多数決の原理」ですが、皆さんの所属する組織ではマイノリティーの意見はどのように扱われているでしょうか。また、功利主義が必然的に行き着く課題「個人の権利との共存」。そんな難しい問いを我々に突きつける功利主義について今回は見てきました。

次回は第三章「私は私のものか?ーリバタリアニズム自由至上主義)」について見ていきます。

 

 

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本日のおまけ

定期的にこういう、いかにもなアメリカの曲聴きたくなる。